濱沖敢太郎のブログ

濱沖敢太郎(教育学)のブログです。主に研究教育のメモとして使おうと思っています。

日記200809

明日(というかもはや今日)書く時間がなさそうなので。

 

最近続けているエスノメソドロジーの勉強。理由は二つ。

一つは、EMが何か大事なことを言ってる気がするけど、それが何かを説明できないので、きちんと理解したいという話。先日来何度か書いてる"seen-but-unnoticed"と"accountable"の問題は主にこれに関わる。なぜ実践を記述するのかということを考える時に、前者を強調すると「実践者が明確には説明できないことを説明してみせる」と主張することになるはず。ガーフィンケルが「日常活動の基盤」で「(社会学者の)特別の動機」と書いたのはそういうことかと理解した。一方で"accountable"に力点を置くなら「実践者以外が実践者の理解に即して説明できないことを説明してみせる」ということだと思う。とはいえ、二つは両立しうるのでどちらが大事かみたいなことが気になってるわけではない。うまく言えてるかわからないけど、研究をする時って何かしらの「発見」を目指してるのではないか。で、この前提がおかしくないとすると、"accountable"だけだと「なぜ実践を研究として記述するのか」ということへの回答のしようがない気がする(それ、発見なの?)。じゃあ、それでEMがダメという話をしたいのかというとそうではなくて。そもそも自分が研究をしていて「発見」したと言える場面が本当にレア、というか正直に言えば既発表の論文でさえ「ほれみんな知らんかったろ!!」という気持ちで書いてはいるけど「ま、引用した資料書いた人は知ってんけどな」というケースが9割。つまり、「研究って何をするのか」とか「発見って何なの」みたいな問題に自分が答えられない、ってことですね。「日常活動の基盤」では、あっさり「常識の『再発見』」と宣言されてしまうんだけど、最初に戻ると「それ、なんか大事なことを言ってる気がするんだけど、もうちょっと教えてや!」というところから抜け出せない。

 

思いのほか1個目の理由が長くなってしまった。

理由2つ目、データの分析ができるようになりたい。来年度(早ければ今年度後期)から、担当している授業の内容を変更したいと思っている。古典講読に当てていたコマをカットして、その分、テキストやビデオデータなどの分析の練習のコマとして作りたい...のだけど、自分がテキストとかビデオデータの分析をできる、と言える自信がない。このコマの前半はテキストマイニング、後半を会話分析の勉強に当てたいんだけど、特に後者が問題。『会話分析入門』も読んでみた。「おー、『3章 分析の手順と方法論』まんままんまのタイトルだー勉強しよー」からの「うん、何となくわかった、わかった。けど、このとおりやってみて他の章のような内容を書けるようになるにはまだだいぶギャップがないかい?」という状態。データセッションと呼ばれる会で何が行われてるのかが分かれば自分にも活路があるのではないかと思ってちょこっと調べたけど、わからんかった。

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www.yuhikaku.co.jp

http://kashida-yoshio.com/gensho/4gou/4gou.html

何の記事だったか忘れたけど「データセッションにとりあえず参加しよ。参加してトレーニングすれば身につくよ」みたいに書かれてて、いや、それこそちゃんとインストラクションしてくれ、という気持ちになった。なかなか研究会に参加して勉強するチャンスもないから、もうちょっと勉強しよ。

 

いろいろ探してて、久しぶりに読んだtogetter。思わず、ふたたび、熟読してしまった。

togetter.com

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