濱沖敢太郎のブログ

濱沖敢太郎(教育学)のブログです。主に研究教育のメモとして使おうと思っています。

日記200909

 「質的データの分析ってどうやったらいいの?」問題。

 

 基本的に「分析が、注目すべき要素(単位)とその関係の記述であること」かつ「(特に質的データにおいて)その要素と関係が無数にありうること」が問題であると思う。

 「分析が〜」と書くのは2つの理由があって、まずは計量的な分析が「特定の変数間の関係の有無」を検証していること。もう1つは、会話分析が「特定の行為が行為の連なりを作る上での適切さの記述」を行なっているということ。特に後者は自信ないけど、串田・平本・林『会話分析入門』の「分析を行う」を読む限り、そう言えると思う。ここでは、いろんな人の「分析」がすべてそのような作業を行なっているということではなく、僕ひとりの思いつきじゃないということを弁明したいだけ。もうちょっと補足すると、記述が無数にありうるでしょということはサックス(南・海老田 訳)「社会学的記述」『コミュニケーション紀要 24輯』が「エトセトラ問題」として書いてて、それを参考にいろいろ考えてるんだけど、記述と分析の関係がよく分からなくてサックスが「分析について」こういうこと書いてるよ、とまとめる自信がない。以下引用するEMや会話分析の論文だと記述と分析は同義に読めるけど、それでいいのか誰か教えてほしい。

 その上で冒頭の問題に戻る。要素の関係を無数に記述しうる、という問題への計量的な分析の対応。まず、特定の要素(変数)だけを用いることの適切さは研究者の判断に依存する。「階層格差を検証するのに学歴入れないのはまずいでしょ」みたいなこと。ただ、これは異なる要素が取り上げられる可能性を排除しない。実際、論文書く前の分析作業では、いろんな変数を投入してるではず。次、要素の関係の記述の適切さについては確率が根拠になる。確率をどう根拠としてよいかは有意水準のように、分野の慣習によるところが大きい。そういう意味では、結局研究者判断なので異なる記述の可能性が排除されないけど、そのバリエーションがかなり狭められていると言ってよい。もう少しつけ加えると、計量的な分析が対象とするデータは、しばしば調査を通じて特定の変数に情報量が圧縮されてるから、その関係も含めてそんなにバリエーションがない=組み合わせをいろいろ試すことが作業としてできてしまう、ということもあるのでは。でも、これはデータを集める調査の方法がそれを可能にしているので、正確には分析の問題と無関係だと思う。あとでまた。

 記述無限にありうるでしょ問題への、会話分析の対応。特定の場面(要素と関係)を取り上げるのはこれまた研究者の関心による訳だけど、その場面において要素が互いに関係していると主張するには場面の参与者の理解に基づいていなければならない。これに従うなら、それは同時にその場面以外の要素や関係を取り上げなくとも参与者にとって適切だということでもある。それゆえ、記述無限にありうる問題がこれまたかなり狭められている。

 ただ、串田・平本・林『会話分析入門』では、記述の適切さを示すときに、(1)行為をつなぐという参与者にとっての課題に資するものとして行為がなされているように記述されているか(2)場面の参与者が(1)のように自らor相手の行為を理解していることがデータに即して示せるか(3)同様のつながりが他の場面でも繰り返し確認できるか、という3つの基準が挙げられていて、これにエスノメソドロジストがみんな同意するかどうかはよくわからない。(1)と(2)は同意しそう。(3)は必須ではない気がする。森「授業会話における発言順番の配分と取得」小宮「「被害」の経験と「自由」の概念のレリヴァンス」を読んでみたけど、事例を重ねるという作業がなされてないから。ちなみに2つを選んだのは、読んだことがあって、初めて読む論文よりは大変じゃないだろうと思ったから、というだけの理由です。一方で、串田・平本・林『会話分析入門』にかんしても(3)は同様の事例があることよりも、むしろ続けて書かれている、例外(反例を含む)をきちんと確認しようという方が大事なようにも読めるので、総じてよくわからない。いずれにせよ、エスノメソドロジーに従うと記述無限にありうるでしょ問題はだいぶクリアされそう。もちろん、選択肢がせばまるだけで必ず解決するもんでもないとも思う。小宮「「被害」の経験と「自由」の概念のレリヴァンス」を読んで意外というか、でも納得できたのは小宮さんの記述について解釈という言葉が用いられていたこと。マッキノンの一つ一つの言明とその結びつき(要素と関係)をマッキノンの理解に即した形で示すにあたっても、ある形(ラングトンやドウォーキンのように)でも理解できる、でも小宮さんのようにも理解、分析、記述できるということを解釈と呼ぶのは納得できるし、会話(議論も含むか)のように諸々の制約がある場面の記述ではそのような解釈が可能であるとは考えにくい。

 ようやっとこ本題。大多数の「質的データの分析」は、参与者の理解に即して要素と関係を記述するという方針を取らない。しかも、計量的な分析における変数のようにデータの情報量が圧縮されていないから、どうとでも分析できる→素人はどうやって分析したらよいかパニックになってしまう。

 これが悩ましいのは、いくつか理由というか問題がある。一番は、質的データを用いる論文がしばしば分析方法を記載していないこと。「相関係数を出しました」「重回帰分析をやりました」みたいなことを書いてほしいわけではない。というか、そのように手短に書けるものであるはずがない。書き手からは手順をいちいち書いていたら字数が埋まるという反応が返ってきそうなんだけど...端的に問題を書くなら「引用しなかったデータとの関係を踏まえてもなお、引用されたデータに付された筆者の理解や解釈が妥当かどうか」が判断できないのが一番のネック。これはあくまで読み手としての言い方になると思うんだけど、書き手として真似しようと思ったときには「データのこの部分は論文に引用しなくてよい、論旨に関係ない」という判断をどうやって行っているのかを知りたい(参考にしたいのに!!)という感じかな。くどいけど、この作業は注目すべき要素や関係を記述する=分析とセットだから、たぶん多くの人がやってるはず。もうちょっと補足すると、たとえば特定個人に対するインタビューはそれ自体会話としてなされている以上、すべての要素が互いに結びついていると言ってよい。でも、その結びつきを無視して一部の語りだけを抜粋すると、たとえば「1節はAさんの語り、2節はBさんの語りを論拠に議論が展開されているけど、2節もAさんのインタビュー全体に照らしてそう展開できんのかいな、2節がそのように議論を展開できないなら、そもそもその議論の展開の一部としてAさんの語りを位置づけることに何の妥当性があるんかいな」と疑問が止まらない。手短にいうと、引用されてるデータとそこに付された筆者の説明が納得できるものだとしても、それと同時にいくらでも反例が思い浮かんでしまう。

 これの対策としておそらくなされているのが、「分析枠組」を示すという作業。ただ、分析枠組みを示すというのにも、注目すべき概念だけを指示するケースから、概念同士の結びつきまで指示するケースまでいろいろあって、正直「これが分析枠組みです」とだけ言われても納得できる(繰り返すけど、真似できる)気がしない。というか、前段に書いたことは、注目すべき研究上の概念やその結びつき(分析枠組み)にかんして、データの特定の部分が関係あるとかないとかっていう判断をどうやって行っているのかがわからないという問題だから、あまり解決してない。でも、研究関心なり課題に即してちゃんと考えれば、分析(or落としてよい情報)のバリエーションがだいぶ狭まるということはありそう。でもそれは、アンケートにおいて調査すべき変数を特定する作業と同型であって、分析の方法とは関係ない気がする。

 これまであんまり関心がなかったんだけど、GTAとかはこの点結構、誠実な気がする。データに対応したコードを積み重ねて、コード間の結びつきを示して...みたいな。ここで大事なのは、コード化自体もデータに即して妥当かどうか議論できてしまうにせよ、少なくとも収集したデータのある部分をコード化と異なる根拠で「分析の対象ではない」と切って捨ててしまってはいないだろうというところ。テキストマイニングも基本的に同じように見える。

 

 特定の論文に即してもうちょっと何か書こうとしてたんだけど、ちょっと疲れたのと、考えながら、授業では「1つのコードを決めて対応するデータをピックアップする」「全部コード化する」「テキストマイニングを行う」「特定の対岸から質問と応答のセットを取り出す(インタビューが何かを考える)」の4つの作業をやることに決めたから今日は打ち止め。心配なのはGTAにチャレンジするところかな...もう一個問題を思い出した。読み手が元データを確認できないことだ。公開されている資料を使う場合にはこの問題がクリアできるけど、質的データとして取り上げられるインタビューとかフィールドノーツはほとんどアクセスできない。これもまた単純に分析の問題ではないんだけども。

 

 思いのほか長くなったので、どこかに文章として丁寧にまとめた方が自分にとっていい気がしてきた。でも誰も読まないんじゃ意味ないし、誰かこういう論文書いてないかとか関心ありそうな人がいないか、探してみるか。やめようか。